「児童虐待から考える」を読んで思い起こす、カウンセラーとしての原点

私が今までで一番衝撃を受けた、「こんな事あってはいけないだろう」と思った事件は2010年に大阪で2人の子どもがアパートに置き去りにされ餓死した事件です。

自分にはその時まだ子どもが一人しかいませんでしたが、その後もう一人を出産し2人の育児を経験しています。
そして父親が不在の状態での子育ても経験しています。

この事件のことを考えすぎて、自分の子ども2人が同時に泣いた時、置き去りにされた2人の子と重なってしまい苦しくなったのを覚えています。

何が足りなかったのだろう?

彼らの母親、への愛情・関心ではないのかな、と思いました。
新聞やネットの記事、生い立ちを辿るこちらの本も読みました。

この本には、「母親を降りる選択があっていい」と書かれており、私は共感しています。

でもそれを本気で実現するためには何が必要か?
母親ではいられない人を受け入れるために、今の社会に欠けているものは何か?
社会の何かが変わらなければならないはずだと思いました。

今思えばその答えをずっと探していたんです。
そして自分の苦しみが大きくなりすぎて、事件のことは忘れ始めていました。

最近発売されたこの「児童虐待から考える」も、同じ著者の方による本です。
今日からこれを読み始めました。

こちらには、生きていれば中学生だった男の子が5歳で亡くなっていたという厚木の事件についてなどが書かれています。

育てていた父親も、仕事をするために子どもが家から出ないようドアにテープを貼って閉じ込めていたわけですが、父親にとっては仕事と子育てを両立するための妥協であるという認識だったということです。

人によっては「無理」なのです。
小さい子をたった一人で育てながら仕事をするのは。

自分が苦しいところから抜け出して、なぜ苦しくなったのかを考える余裕が出来てから、心の学びをすることになり、少しずつまた考え始めています。

大きな事件を起こしてしまった親が、異常な人物だったとして厳罰を受けたら解決する問題ではないのはもう分かりました。

どちらの事件も孤立がひどすぎる。
助けを求める力も欠けていた。

そもそも、小規模すぎる家族以外が子どもに深く関われない家族形態自体、おかしいのではないでしょうか。

もっとたくさんの人が、お互いに関心を持つことが自然にできる必要があるし、父親や母親が育てるという「普通」ではない育て方も、親なら育てられるはずという発想も捨てないと、犠牲になる子は居なくならないのではないかと思います。

個人を見ないと。

そして形を取り繕わないこと。

「ちゃんと子育てしている」と、誰だって思われたい。

耐えられない人には耐えられない。
でも、その人だって、何もかもが耐えられないわけではないんです。
耐えられないことが、常識として要求されることの範囲に入っていただけです。

人によって違う。
こんなに人は違うのに、
みんなが同じことが出来ると思う方がおかしい。

常識が誰かを追い詰めて、殺してしまうくらいなら、それはいらないもの。
我慢して当たり前。
なら、我慢しなくて当たり前にすればいい。

出来ないことが恥ずかしいという社会ではダメ。

出来ないことは誰にでもある、出来ないことは助けてもらえばいい、それは「子育て」も同じ-

そんな風に当たり前に認識される社会であってほしいと感じています。

厚木の事件の結びにこのように書かれていました。

人のつながりが切れやすい時代が到来している。
司法は父親である健一を特異な極悪人として、当面社会の枠外に置いた。
もっとも力が乏しい人たちから順番に社会から排除されていく。
そのような社会の現実が進行する。

私は、排除する側にも、される側にもなりたくない。

カウンセラーをずっとしなかったとしても、一番犠牲になっている人に何かが出来る自分でいたいと改めて感じました。

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